プロフィール

瑞万 日真里  Himali Mizuma
宮崎県生まれ。東京都在住。慶應義塾大学法学部法律学科、文学部哲学科卒業。
バベル翻訳・外語学院(現在はBABEL UNIVERSITY)の「未来塾-異文化対応発音訓練コース」で学ぶ。UIC in London コミュニケーションクラス短期留学。アイムパーソナルカレッジ カウンセラークラス修了。愛と勇気づけの親子関係セミナーSMILE修了。アドラー心理学勇気づけトレーナー。

塾、予備校で英語を教える仕事の傍ら、心理学を学び続ける。2009年大人向け英語教室講師として独立。「もう一度学びたい大人のための英語教室」を主宰し、“もう一度学びたい大人”と接しながら、塾・予備校講師時代の経験、自らの子育て経験もふまえ、「子供が幸せになるにはまず大人が自分らしく生きて幸せになることが大切」と実感する。英語教室では、<堂々と話せるようになる.>ことを大切に、発音トレーニングや自分の意見・感情を表現することに力を入れている一方、「もう一度輝きたい大人のためのライフコーチ」として、自己肯定感を持てない社会人や子育てに悩む親のために活動している。声とメンタルとの繋がりにも着目し、積極的に声を出すことを取り入れたレッスンも好評。一児の母。

My history

「どうせ自分はやっても無駄」をなんとかしたい

私は、複数の塾・予備校で講師の仕事をし、子供たちと接してきました。そのなかで、まだ社会に出てもいない子供たちが「どうせ自分はやっても無駄」「やりたいことはあるけど、それは無理だから」という言葉を口にするのをよく聞きました。また、複数の高校生が、「勉強しても結局、両親みたいになるだけでしょ」と言うのも何度か耳にしました。
私には、彼らが本当に心底自分の人生をあきらめているとは思えませんでした。
「自分にもなにかできることがある」
「活躍できる道は必ず見つかる」
「頑張れば成績も上がる」と本当は思い、自分の未来に期待していたはずです。
「どうせ自分はやっても無駄」という言葉は、「私の人生キラキラさせたいから、ヒントを頂戴、助けてほしい。」という言葉に私にはいつも聞こえていました。
どんなに「大丈夫だよ」「あなたならやれるよ」と励ましても、かたくなに自虐的な言葉を彼らが吐き続けることに、自分の力のなさ、情けなさを感じ、
どういう言葉ならやる気を持ってもらえるのだろうか?
自分自身に可能性を感じてもらえるだろうか?
本人の希望と異なる、不本意だけれど周囲を喜ばす進路を選ぶときの子供の空しさをなんとかできないだろうか?と考え続けました。
同時に、生まれてきたとき何も諦めていなかったはずの子供たちが、投げやりで自虐的な言葉を吐くようになったのは、どうしてだろうと考えました。
彼らにそう思わせてしまっているのは、まぎれもない、彼らのそばにいる(そばにいた)大人たちです。
「あなたはダメだね」「どうしてできないの?」「現実を見たら?」と安易に口にしてしまう親や教師や、ネガティヴな社会そのものかもしれません。
親は子供のために良かれと思ってお金と時間を投じて、塾や予備校、学校に通わせているのに、「結局両親みたいになるだけ」と言われてしまう。悲しく残念なことです。

その残念な事態を変えるためには、子供たちが「どうせ無駄」といった言葉を使わずのびのび自由に自分の可能性を信じられるためには、親に限らず、「子供を取り巻く大人たちこそが、楽しく、生き生きと生きることが何よりも大切だ」と考えるに至りました。

楽しそうに生きていない人に「楽しく生きていけ」と言われても、
毎日愚痴や不平不満ばかりの人に「きっと幸せになれるよ」と言われても、説得力はまったくありません。眉間にしわを寄せて生きている辛そうな人に応援されることは、応援ではなく、ただのプレッシャーです。「がんばってね」と言いながら「なんでできないの⁈」と安易に言ってしまうこと、
高額な費用を予備校や塾・学校に無理してでも払いながら一方で不平不満でいっぱいの姿を日々子供に見せることは、
子供にとってアクセルとブレーキを同時に踏まれているようなものです。
苦しさ、辛さを見せつつ「がんばれ」と応援されると、子供は混乱してしまいます。
それが、「どうせ自分はやっても無駄」と言いながら「なんとかしたい」とも思う子供の苦しい視線の正体だと言っても良いかもしれないのです。

自分を振り返ると・・・

私自身も、子供時代を振り返って考えてみると、
「どうしてできないの?」「もう無理じゃない?」というやる気がすっかりそがれる言葉と、
「がんばりなさい」という励ましの言葉を、周囲の大人に同時に発信される子供時代を生きてきました。
立ち止まって、先をゆっくり考えたい気持ちもありながら、このまま進んで大丈夫だろうかという不安と自信のなさを打ち消したくて、自分の本心はあまり考えないようにして、周囲の期待に添う生き方を選んでいたと言えます。

投げやりとも言い切れないけれど、本心にきちんと向き合うことなく目先のことをとにかくこなすことに必死だった私は、どこかに「これは私らしい人生ではないかもしれないけどもう他に選択肢はない」という「あきらめ」や「自虐」の気持ちを抱えていました。
大人になった私が、講師として予備校や塾で出会った子供たちの「どうせ私はやっても無駄」という言葉は、私のかつての姿だったのです。

「あきらめ」や「自虐」の負のパワーはすごくて、「この方向では自分は幸せにはならないかも」と、うすうすわかりながら進んでいては、困難が生じたときに到底太刀打ちできないことを、大人になってから私は思い知ることになりました。

子供のころは正義感の強い読書の好きな子供でした。「リンカーン」にあこがれ、女性や弱い立場の人の味方になりたい!と思い、法曹を志し大学の法学部に入学しましたが、その後思わぬ病気になり、病院通いをして、検査・服薬の日々が始まりました。
司法試験の勉強も生活も思うようにならなくなって、私は自分を見失って行きます。
目指していた職業に付けずうまくいかないのはすべて病気や理解のない周囲や運のせいに思えて、いつしか、《自分には帰る場所がない》《心の居場所がない》と思うようになっていきました。
こんなはずじゃないという小さなプライドと、結局私は何もできていないというコンプレックスが益々私の居場所を失くしていき、時だけが過ぎていったのです。
他人と比較ばかりしては落ち込み、自分をまったく好きになれず、泣いてばかりいました。
朝目が覚めると、なんで目が覚めたんだろう、ずっとずっと眠っていたかったと普通に思い、いつも深い海の底に沈んでいるような感じでした。
自分なんてバラバラに壊れてしまえばよいとしか思えず、気が付けばいわゆる深刻な鬱状態に陥っていたのです。自分の人生が自分のものではないようでした。
他人と比較しては落ち込むの繰り返しは、何も生みだしませんでした。
今振り返ると、私は誰かが自分の状況を変えてくれるのではないか?と思っていたような気がします。
だってこんなに大変なのだから。かわいそうなのだから。不運なのだから。一人ぼっちなのだから。と、ひたすら同情してもらえることを待ち、なにかの具合で幸運が巡ってくることを待っていたのだと思います。自分の人生を本当の意味で大切にはしていなかったということなのでしょう。
「自分の人生の責任は自分がとる」
「自分でしあわせになることを決めて、自分で行動していく」
というシンプルなことがわかっていませんでした。
人より遅れて社会に出て、予備校や塾で教える仕事を選びました。
そして子供たちの「あきらめ」や「自虐」の言葉を聞きながら、なんとかしたいと励ましながら、そこにかつての自分がいることもわかりながら、どうすることもできない日々を経て、大人がまず幸せにならなくてはと気づきました。
それでも、なかなか行動に移せなかった私に勇気をくれたのが子供の存在です。
出産して子供を抱いたとき、その温かさに私は驚きました。
「温かい、そう感じられる私は生きているのだな」と初めて自分の生を心から実感しました。
「私が生きていなかったらこの子は産まれていない。だったら私が生きてきたことも意味があったのだ。」と感じ、自己否定的な思いにどっぷり浸って、与えられた人生を生かしてこなかった自分を恥ずかしく思いました。
私にできることを早くやらなくては!という焦りも湧きました。
心理学の学びの助けもあって、恥ずかしながら、私はやっと自分の人生の責任を自分でとることを実感しました。誰かが幸せにしてくれるかもしれない、行動せずに待っていれば幸運が巡ってくるのだ、という他人任せの人生から離れられたのです。
同時に、「他人に愛されたい、認められたい」という承認欲求への執着から徐々に解放されていきました。

多様な、自分らしい生き方を子供に

そういう私も、うっかり自分の子供に対しては、「そんなんじゃきっとだめ!」と言いながら「がんばればできる」と相反するようなことを立て続けに言ってしまったりする、懲りない母親です。

自分から好きで子供にかかわっているのに、疲れてくると「あなたのためを思ってやっている」というニュアンスの空気を出してしまうダメな母親でもあります。

親も人間ですから、最初はそんなつもりがなくとも、良くないとわかっていながらついつい愚痴や不満が口をついて出てしまいます。

そんな親(大人)の気持ちもわかるからこそ、「親(大人)自身が楽しんで!」と言いたいのです。

「自分の人生の一部として、子供を愛し、子育てに情熱を注ぎながらも、あなた自体が楽しんで生きることを忘れないで!」と励まし続けるのが私の仕事だと考えています。

子供がいらっしゃらない大人の方に対しても同じ気持ちです。

数十年前ならいざ知らず、いろいろな生き方があることを、子供の少し前を歩く見本として大人には見せて欲しいのです。

結婚しようがしまいが、子供がいようがいまいが、そんなところを今の子供は見ていません。

堂々と自分らしく生きる姿を、どんな大人も未来の大人である子供たちに見せて欲しいと願います。

人生の最期に人々が口にすること

The Top Five Regrets of the Dying (written by Bronnie Ware)
「死ぬ瞬間の5つの後悔」ブロニー・ウェア著 という本があります。
緩和ケアの介護を長年勤めた著者が、数多くの患者を看取った経験をもとに書かれた本です。
これによると、人生の最期に、人々が口にする後悔は、ほぼ同じ5つのことです。
⒈ 自分に正直な人生を生きればよかった
⒉ 働きすぎなければよかった
⒊ 思い切って自分の気持ちを伝えればよかった
⒋ 友人と連絡を取り続ければよかった
⒌ 幸せをあきらめなければよかった

死ぬ瞬間の5つの後悔と言われても、皆様の中には、人生の最期なんてまったく想像できない方もいらっしゃるでしょう。けれどちらっとでもいいので、自分の人生の最期について考えてみてください。
人々が人生の最期に後悔すること=「⒈自分に正直な人生を生きればよかった」とは、「自分の気持ち、本当の想いに正直になって、勇気をもってそれを実現しようと行動すればよかった」と言い換えられると私は思います。
「自分に正直な人生」を送ってないかもしれないとどこかで感じていても、
「今更何をやってももう無理だし。」というあきらめにも似た気持ちを抱いてみたり、
「もう少し先でもいいか」と気づかないふりをしたり・・・。
もしかすると思い当たる方もいらっしゃるかもしれません。そういう時は、今行動に移さない言い訳ばかりが浮かんできたりするものです。私もそんな日々を過ごしました。
それでも、心理学の学びを得、教える仕事で子供たちに接するうちに、他人からの評価ばかりを気にしていた私から、「やるかやらないか迷ったらやってみる方を選択する」「できると信じてやってみる」私に少しずつ変わりました。
完璧でなくてもいい。小さな一歩を踏み出さなければ明日も明後日も同じ日がやってきます。
プライドとコンプレックスを丸めてポイと捨ててしまい、えいやっと踏み出す。
口で言うほど簡単なことではありません。でも苦しい時代を経験した私だから、「勇気をもって!」と言いたいのです。

だれかの魔法よりまずあなたの最初の一歩を

自分に正直な人生を生きればよかったと人生の最期に思わないために、
やりたいこと、行きたい場所があったら勇気をもって行動する大人を全力で応援したくて、「もう一度学びたい!大人の教室」を始めました。

英語をずっとやりたいと思っていながら、「いつか」より「いまさら・・・」という気持ちの方が大きくなってはいませんか?

やりたい仕事ではない、家族の中がぎくしゃくしていてこのままではよくない、と思いながら、あきらめて、自分で八方ふさがりになっていませんか?

子供の受験をきっかけに、だれにも言えなくてモヤモヤして孤独になってはいませんか?

魔法のようにすべてが一度に解決することはないかもしれません。
でも解決までの時間は一気に短くすることはできると信じています。まず一歩踏み出してください。
自分の人生に躊躇なく情熱的になって、あなたのキラキラした姿を、先を行く大人として、子供たちに見せつけてください。

うまくいくこともいかないことも、すべて含めて楽しく生きる、自分に正直な人生を送りたいあなたを心から応援します。

私の「もう一度学びたい大人の英語教室」、「中学受験 親も子も未来を描ける進路セミナー」受験個別カウンセリング」「Healing Cafe for Mothers」「大人のコーチングセッション」は、もう一度学びたい大人、自己肯定感をもって、堂々と、自分らしく生きたい大人を全力で応援する教室です!

It is never too late to be who you might have been. George Eliot
なりたかった自分になるのに、遅すぎるということはない。ジョージ・エリオット

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