【Man cannot live by bread alone@代官山蚤の市】

好きを見つける

若い頃、日本の古道具に興味津々で集まる外国人がまったく理解できなかった。「実家の納屋にありそうだし。誰が使ったのかわからないなんて怖すぎる。」と、実に冷ややかだった。
ところがその後。
たまたま出くわしたウィーンの蚤の市で、すっかり古いモノの虜になってしまったのだった。
壺や掛け軸ではなく笑、
ボタンやレースやエッグスタンドに錆びた小箱。
まるでそれらに囲まれて生活していたかのような錯覚。
誰が使ったかわからない怖さは、もはや誰が使ったんだろうというロマンに変わっていた。
なんとも図々しい、劇的心変わり!
前世の記憶か、
はたまた異文化への憧れか、
とにかくその時から、
蚤の市と聞くと、ワクワク心が踊るようになってしまった。
何も買い求めなくても、
眺めているだけで楽しい。
ぼったくりなのか、お得なのかが、買った人の心持ち次第なところも好きだ。私にとって価値があればそれでいい。
ミニマリストが胸を張る時代。
なんでもシェアする時代。
みんながファストファッションの時代。
「避難所で無くて困ったベスト10」みたいな記事や動画が気になる最近の私。
それが無くても生きていけるだろうモノ達は、なんて心を豊かにしてくれるのだろう。
人と違う私だけのチョイスは、なんて胸がドキドキするのだろう。
この先もしツライことがあったら、
会ったこともないヨーロッパ人が編んだレースのマットの上に、
アンティークの皿をのせ、貴重な水を使わないようにサランラップをひいて、
その中に備蓄のあいこちゃんの無添加サバ缶を入れて食べるのだ。
災害用ランタンに照らされた薄暗い部屋で、遠く極東の日本人が、のちにサバ缶を食べるなんて、
19世紀のフランス人は想像だにしないだろう。
そんなことを考えるのは、私くらいのものだろうが、
Man cannot live by bread alone.
人はパンのみに生きるにあらず。
ちょっと意味違うかなあ。
小さなアンティークは、たくさんの物語を連れてやってくる。
一見、不必要に見えるそれらは、
アルファ化米やサバ缶という眼の前の現実と同じくらい、悲観的になりそうな私を、溢れる物語で救ってくれるかもしれない。
そして断捨離はなお遠く…。

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