なんのために勉強しなくちゃいけないの? vol 2 〜他人のアタマで考えない習慣

子育て

法学部時代、ゼミでもそして卒業後司法研究室(だったっけ?)にいた時も、論文はまず結論から書いた。
そして論証して、最後また結論。
結論なくしては、一行目を書きだせない。そのやり方に何の疑問もなかった。

その後、文学部に学士入学して、ゼミの教授と話している時、
ふと、この問いはなぜあるんだろうと思うことがあって、
「先生、この研究は何のためにやるのですか?」
と、恐れを知らず質問をしたところ、
「瑞万さん、何のためにやるかわかっていたら、その研究をやる必要がありますか?」
と穏やかに返され、本当に驚いたのだった。
目から鱗だった。
これは数十年前の私の一つの体験に過ぎず、現場はもっと違うのかもしれないが。

法学部が社会科学で、文学部が人文科学を学ぶものだとざっくりわけてしまうと、さて、残りの自然科学だけれど、
自然科学の世界というのは、研究してたどり着いた真理という点では、私が文学部で学んだことに近く、さらに加えて、意見が割れようもない、たった一つの真実があるのだと私は思っていた。
まあ無知というか、勉強不足というか、素朴すぎたと、娘のアレルギーのことを勉強するようになって思った。
要するに、当たり前なのだが、意見が激しく割れているのである。

昨今の感染症や、
それに伴うグローバリズム(ジョブ型雇用、リモートワーク、顔認証システム、5Gその他諸々の急速な推進)について、TV新聞とネットの世界で、
それぞれ権威のある専門家や大学の先生方の意見が割れすぎていること。
国内外のスポンサーがいないとせっかくの研究も続かないという現実。
を見て、素人だからこそ益々どの意見も鵜呑みは危険と考えるようになった。
人間には確証バイアスというものがあって、自分が正しいと思う方の証拠を集めがちでもあるから、なおさらだ。

たまたま、養老孟司先生の、
「グローバリズムについて コロナ禍を考える」を読んでいたら、私の疑問に答えて頂けるようなことが書いてあって、なるほどね、と納得した。
養老先生は、
『グローバリズムは自然科学から波及したのではないか?自然科学も、実証できない場面では「思想」で、それが実社会に波及したとき、グローバリズムになる』とお考えのようだ。

自然科学もわからないことが多いのだから今の時点ではその人にとって真実でも、違う切り口や時代では「思想」なのかもしれない、
と思えば素人の私は、とても納得いく。

かつて、とある病院で、
娘の治療法について質問したところ、
「お母さん、あのねー、これは日本○○学会の標準治療なんですよ!!」と目の前でキレるお医者さんのPCに、
『今月の入院ノルマ、あと8人』
と貼ってあったこともあり、なんだか大変なんだなと同情こそすれ、一気に治療方針への納得感は薄れた。それとこれは違うと言われても、である。
そしてこれは、「思想」を超えて「政治」の話かもしれないけれど。

さてさて、我が家では、自粛が終わり、学校が再開するころ、娘が実にサラッと言った。

「ママと家に居て楽しかったんだけどさ、ママとの時間が長くて、自粛明けに私は偏った思想の持ち主になってないか、すご〜く心配なんだよね!」

あーそこの娘さん、わかってらっしゃる!!

そもそも、定説を覆すのが学問なんだとしたら、(そしてその定説が思想なんだとしたらなおのこと)、
某国営放送が言ったから、
新聞に書いてあったから、
専門家が言ったから、
ノーベル賞学者が言ったから、
学校の先生が言ったから、
教科書に書いてあるから、
論文があるから、
「ずっと」「全部」正しいなんてことはあり得ない。

そして母親が言ったから正しい、なんてことは、(少なくとも我が家においては)
さらにもっとない。

娘よ。
母の意見を覆すために学ぶのだ!
他人のアタマではなく、自分のアタマで考えるのだ!!
勉強はそのためにある。

タイトルとURLをコピーしました