日航123便が墜落した35年前のあの日。
同じ時間帯に私も空の上にいた。
乗っていたのは全日空羽田発宮崎行。
南国でもあり、着陸後も夏の空はまだ暮れていなかったと思う。
実家到着後、家人に、私の友人から電話があったので貴女は今日帰ると伝えた、と言われた。
そこに、日航123便が行方不明になったとニュース速報。
実感はなく、さっきまで居た羽田空港を、どこか遠いところのように感じた。
翌日、友人から、高校の同級生が事故に遭って同じ血液型の人を必死で探していて私にも電話した、でも残念ながら同級生は亡くなったのだと聞かされた。
その日123便の機体もようやく発見され、TVはずっと事故のニュースをやっていた。
実はその辺りの記憶があまりない。
友人からの電話も、私が直接受けたような気もするし、違うような気もする。
ただ、123便には子供がたくさん乗っていたというのを聞き、大学生活が始まってすぐだった同級生と重なり、あるはずだった未来がなくなった虚しさや、納得できない気持ち、同じ日時に飛行機に乗っていた怖さとともに、その時の夏の空の記憶がかすかに今も、ある。
翌年、大学の選択英語の講義中、唐突に「君たち、○○っていう神様知ってる?」と担当の講師が聞いてきた。
私は大学2年生になっていた。
「長年留学先から帰ってきて治らず苦しんだ僕のJet lag が、その神様で治ったんだけどね、日航123便で助かった人も、墜落の瞬間に友人から聞いていたその神様の名前を唱えたらしいよ。
覚えておいて損はないから。」
良かれと思って話した講師の親切心はわからなくもなかった。
それでも123便の墜落には、解明されないことがまだまだ残っており、その日に同じく羽田発の便に乗っていた私には、あの時と同じなんとも言えない気持ちが生じた。
神様ねぇ…。
あれから35年が経つ。
あの日航123便墜落について、
政府やメディアの発表では全く辻褄の合わないことに納得がいかない、家族や関係者、ジャーナリストが調べあげた本が、現在は何冊も出版されている。
夏が来るたびなんとも言えない気持ちを抱きながら、読むことが出来なかったたくさんの出版物に、今年の夏はすべて目を通した。
苦しくて眠れなくなる、コックピットの墜落までの最後の様子も、何日もかけて無理やり聞いた。
身内や同僚を亡くした人達の執念であろう、すべての書籍の取材の緻密さにも、粘り強さにも頭が下がった。
当時メディアが伝えなかった事実がそこにはある。
墜落した場所に近い学校の小学生と中学生があの日見たことを文集として残している。
子供達は、見たものと発表されるものとの違いにどう折り合いをつけながらあれから今までを生きてきただろうか。
それでも。残念ながら、というべきか、
すべての出版物の結論は仮説である。
緻密な調査ながら、なぜこの結論?という疑問が残る仮説もある。
けれど、
真実が明るみになることなどあるはずもないじゃないか?と思えば納得がいく。
今だって。
そう今だって。
それでも大人はいいだろう。
大人は、選挙権のない若者や子供に冷た過ぎないか?
若者や子供には考える力がないとでも?
若者や子供も、大人と同じように清濁合わせ飲めるとでも?
今年、学校に行けなくなった子が増えている。大人の欺瞞は、ひたひたと子供の心を今蝕んでいる。
あのとき、文集を書いた御巣鷹山近くの子供達の心を悩ませてきたかもしれないように。
何が起こっているのだろうと、どんなに歴史や経済や政治を紐解いても、
真実にたどり着いたその先にまた真実があり、ここかと思うと、さらにその先があり、結局真実なんて誰もわからないと思える無力感と虚しさと、複雑さ。
始業式の朝、なんとなく晴れない顔の娘を、「ママは貴女をすごく愛してるんだからそれだけでいいんだよ!世の中がどうなっても!」と送り出した。
「真実はそこにしかないから!」と続けると、相変わらずくさいこと言うねえと言って、でもふふふと笑って玄関を出て行った。
1985年8月12日。
あの夏の日の翌月、9月。
日本はプラザ合意により、円高ドル安、バブル期、そしてバブル崩壊へと突き進む。
それがどういう意味なのか、知りもしなかった自分をどう受け止めたらいいのだろうか。
おそれ。陰謀論という言葉。宗教(今回はスピリチュアル)。そして、金融大転換。
いつも似たような道を辿る。
若者や子供の未来を虚しいものにしたくないと思う。
あの夏と同じ、苦しかった今年の夏を、私は忘れない。
そして今度こそ、子供達を、若者を守りたい。