当時まだ結婚していた。
その時、夫は仙台勤務。
私と娘は東京に居て、その時間娘は幼稚園からの学童保育園。
私は、歯医者の予約でたまたま仕事から自宅に戻ってすぐの出来事。
人生で一番揺れてる!と思ったのに、幸い家の中は置物がカタンと一つ落ちただけだった。
それでも金魚が飛び出してきそうなくらい水槽の水が揺れて、思わずテーブルの下に。
子供がおかあさ〜んと呼ぶように、怖くて娘の名前を呼んだ。
正直なところ、そこからは正確な時系列で思い出せない。
確認したくてTVをつけた、と思う。
どうして良いかわからなくて、意味もなく歯医者に行けませんと電話した。
行けるはずもないが、ただ誰でもいい、人の声が聞きたかったのかもしれない。
お迎えに行かなきゃと思っていたら、学童の先生が車で娘を送って下さり娘とは合流。
ごっこ遊びの最中に揺れたらしく、シンデレラのドレスのまま逃げたのよと、娘は笑っていた。
怖い記憶として残したくないのだなと有り難く頼もしく、ともかく安堵した。
震源地が東北とわかったが、電話は繋がらなかった。
九州の実家から電話があり、そこで夫の無事を知る。
東京には繋がらないから私に伝えて欲しいと仙台から九州に連絡があったとのこと。
電話がつながるようになってから、夫には毎日連絡した。
現地にいると、何もわからないかもしれないから私が知っていることを伝えようとか、
私にできることはないかとか、今思えば自分の不安な気持ちを鎮めようとして。
電話で漏れきく様子が改善に向かっているように思えず、
夫の会社の本社に何とかして欲しいと何度か電話した。
何しろ、食べ物がなく、支店全員で、分かれて食べ物調達をしていたから。
私の言動は、彼の立場を悪くしたかもしれないとずいぶん後で考えた。
彼は「僕は大丈夫だよ」としか電話では言わなかった。
でもそのことが大変さを逆に表していたし、歯痒い思いをした。
一週間もすると、
身内が被災地にいて、なんとか自分にできることはないかと落ち着かない気持ちの私と、
そこそこに落ち着いてきた東京の周囲の人々との間で、ギャップが際立った。
幼稚園ごと園児が流されたという現地の話を聞くと、
普通に卒園式のできることが有難いやら申し訳ないやらで、
数日後の娘の卒園式に募金箱を置けないかPTA会長さんに話したが断られた。
その後、私が怪しげなお金を集めようとしてる、という噂がママ友の中に流れ、
さすがにそれは気の毒だと思ったのか、幼稚園自体が卒園式に募金箱を置いてくれた。
募金には知らんぷりのママ友から、千葉の化学工場が爆発したというチェーンメールが送られてきた。
違う世界の人達のように思えて、もう腹も立たなかった。
新幹線はなかなか復旧せず、3月末の娘の卒園式に合わせて、
夫がバスを乗り継いでやっと東京に帰ってきた。
私達家族は無事に再会したが、
私は泣きも笑いもせず、無事で良かったねとも言えず、
彼も怖かったんだよとも、疲れたよとも大変なんだよとも何も言わなかった。
ただ、こんな暗い顔をした人を生まれて初めて見たと感じた。
近寄りがたかった。
電気は早めに復旧したが、プロパンガスですぐにガスが使えた郊外と違い、
都市ガスは復旧せず、ひと月近くチンしたタオルで身体を拭くだけの生活だったらしい。
東京の自宅でお風呂に入って身体は温まっただろうが、この先のことを考えてか彼のココロまで温まることはなく、
腫れ物に触るような数日が過ぎて、夫はまた仙台に帰って行った。
その頃、彼の支店の中は揉め事で溢れていたらしい。
非常事態には、疲れとイライラで日頃の不満がワッと吹き出すのが人の常だ。
社内も家もやっと片付け終わってすぐに大きな揺れが再び来て、またぐちゃぐちゃになり、
萎えた気持ちにもなっただろう。
TVではやたらめったら、海外からの支援や人々の絆を強調するものも増えていたが、
現実は違ったと思う。
震災直後に家族で意見が割れて離婚は増え、
暗闇と倒壊した家屋に乗じて強姦や窃盗といった犯罪は増え、
トイレに行けず膀胱炎、野菜が食べられず口内炎、
避難所では子供がうるさいと怒号が飛ぶ。
幸いにも生き延びた場所がどこも地獄のようで、
外に出れば出たで映像では決して流せないモノに溢れていたようだった。
そしてそんな状態でも、パチンコ店や風俗店はすぐに営業したらしい。
「みんな生きていかなきゃいけないからね」と呟いた夫の言葉を昨日のことのように思い出す。
その後、彼は西日本に転勤となり、しばらくして私達夫婦は解散した。
震災は家族をやめることとは全く関係なかったとも言えるし、やはり関係あったような気もする。
元々同級生だったから、今も交流は頻回にあるが、彼は震災の時のことを話さない。
ただ時々東北で覚えた田酒を美味しそうに飲む。
そういうことにしたいんだろうと思うから何も聞かない。
洗いざらい話した方が楽になる人だけじゃない。
娘は中高時代、毎年夏に女川でボランティアをし、文化祭では石巻の缶詰を売った。
大学受験の推薦が欲しくてボランティアをやるんだろうと真顔で言ってくる教師がいたが、
娘は呆れて意に介さなかった。
私は募金活動などは一切やめ、気がつけばミニプレッパーとなっている。
備えすぎると逆に災害を呼び寄せると言う人がいるが、
不安が安心に変わる備えならいいんじゃないかなと思う。
論理的に起こりうる可能性を一つずつ潰していく作業は嫌いじゃない。
それにどんなに備えても、現実は予期せぬことに溢れるのだろう。
「せっかく集めた防災グッズにつまづいて怪我をしないようにね」と言う元夫のdark humor を聞くと、
やっぱり解散は震災が理由じゃなかったなと思い直して、苦笑いがこみ上げる。
でもこれで良かった。
彼も娘も私も。
それぞれに抱えた悲しみや孤独を、シェアして溶かすのではなく、
私達はカラダの中で醸成して、それと共に一人一人生きている。
「災害への一番の備えは何か?」と聞くと、
プロの防災士さんは、「災害をリアルに想像する力とコミュニケーション力」とおっしゃる。
その上で何が必要かともし私が聞かれたら、「日頃から本音で生きること」と答えるだろう。
本音で生きている人は、辛いことも必ず乗り越えられる。
いや、辛いことと共に生きていける。
思い残すことがあまりなければ、現世からのログアウトの恐れも遠ざかる。
そもそも突き詰めると、笑うしかない真実にこの世は満ちている。
3.11は、私にそれを教えてくれた。
★追記 能登半島地震の被害にあわれ、亡くなられた方のご冥福を改めてお祈り申し上げます。
また、未だにご苦労されている現地の方々のために私にできることをやっていくとともに、しっかりと備えることの必要性をあらためてすべての人にお伝えしたいと思います。