私の記憶が正しければ、少し前まで若者は「人と違ってナンボ」だと思っていたはずだ。
みんなと同じなんてダサい。
考え方も、服装も、なんとかオリジナリティを出したい。
大人も同じ。
言葉はやや穏やかになるものの、「自分らしい生き方」なるものが支持され、
人と比べず、趣味でも仕事でもできるだけ自分の本当にやりたいことをやる、
そこを目指してきたはずだった。
それがなぜだか、いつのまにか、
人と同じじゃないと平等じゃない!
個性を出すのは、平等を確保したあとね!
と、条件付きのオリジナリティに変わり、そこがさらに膨らんで、
まずは皆と一緒が安心!ということになってしまったのだろう。
最初は注射は打たないよと言っていた人達が、
会社の人みんな打つもん。
学校で打ってないの私だけだし。
東大卒の友達が打った方がいいって言ってたし。
デマに気をつけろとハーバード卒の医師が言ってたし。
打たないと仕事できないから。
やめた方がいいとか言ってる人達はヤバい人達だよ。
小さな副作用を取り立てて大きくする、社会の中の困った人達。
あんな風に尖る人とは距離を置かなきゃ。
という、「尖るより、みな同じが大事」「人と違うことを言うのは損」というおかしな平等感にみなが陥った結果、毎日救急車のサイレンが聞こえるわけです。
打つ打たないを問題にしているわけではなく、損得に基づく平等感覚が、人はそれぞれ違うという個体差の問題を忘れさせてしまっていることが問題なのです。
まさに、この平等にまつわる心理的誘導について、
著述家ヘンリー・メイコウ氏に対する、J・ロスチャイルド氏のコメントが話題になっている。巷では、どうやらロスチャイルド氏本人らしいということになってるようだ。
中村医師が丁寧な翻訳をしてくれていて(僭越ながら、この方は医師としての専門知識に加えて、そこらへんの保守ジャーナリストも真っ青なトピック立てと翻訳能力の高さが本当に素晴らしいと思う)、
大変考えさせられる。
若者よ。
人と違ってナンボ!だったはず。
尖れば目立つし叱られる。良い評価はつかないし時には批判もされるだろう。
だけど、人と同じものを失っても、
自分を貫いた誇りと輝きがあるじゃないか。
自分らしく生きるはずの大人の皆さま。
自分らしく生きたら、失うものもあります。平等に扱われてないなと思うこともあるでしょう。周りから人がいなくなるかもしれません。
でも、尖らないことで離れていかないその周りの人達、あなたの命を守ってくれるのですか?
自分らしく=人と同じであること、という方以外は、
自分や自分の子供の命を、平等と引き換えに他人にあずけないことです。
この先は、それがどんなに論理的整合性を持っていても、多くの人に支持されていても、自分という個体に適しているか?について、慎重にならなければならないということです。決して心理学的な誘導にあってはいけません。
そしてそのために、己を知ること。自分と言う人間の心の在り様(自分は何を大切にしていて、どんな信条なのか?)と、自分の身体(体のどこが強くて弱くて、何を今まで食べてきてどんな環境だと体が喜ぶのか?)に敏感でありたいと思うのです。