今年の夏、大切な人が亡くなった。
40年以上も前のこと。
思春期真っ只中の私は、著書を読んで、この人なら答えをくれるかもと、無謀にも作家のK氏に手紙を書いた。
「生きることの意味がわからない」。
返事は来た。
返事を読んで霧が晴れたように人生が意義深くなったりはしなかったが、「生きることの意味はいつかわかるのだろう」と思えた。
何年も手紙のやり取りをしたのち、私が大学生になり上京すると、
K氏は、自宅で開催される「哲学の勉強会」に招いてくれた。
私以外には、雑誌のカメラマン、高校教諭、画家などありとあらゆる職業の大人が集い、まだ10代だった私は身の置き場がわからず困った。
社会人として活躍するオトナたちは、
夫が浮気したとか、
同僚とうまくいかないとか、
自分より下手な画家の絵が売れたとか、驚くほど小さなことで悩んでいて、
これが生きることなんだと拍子抜けしたような気持ちと、
いやいや人生はその裏に何か大きく潜んでいるんじゃないかと不安な気持ちとの、どちらもを感じた。
時々悩み事があると押しかけていたのだが、
いつものようにいきなりご自宅を訪問したある日のこと。
K氏の奥様が、
「あなた、いやあねえ、いきなり来たら何もないわよ。でも今日新宿の小田急ハルクで魚の切り身を買ったら、奥さんもう一切れオマケしとくって言われたの。あなた来るのわかってたのかしら」と笑いながらおっしゃった。
食卓に焼き魚が並び、
「いただきます」と言いかけたとき、ちょっと待って〜とエプロンを外し、普段着の上にパールのネックレスをして奥様が現れた。
キッチンの鍋の蓋が肩越しに見えるさほど広くないダイニングキッチンのささやかな食卓。
突然来た大学生の私を客として扱い、パールのネックレスを急いで首にかけてきた奥様と、
「生きることの意味」を探し続ける生意気で図々しい私に、多忙な中、真摯に答えてくれるK氏。
突然胸がいっぱいになった。
生きることに意味を求める小娘の図々しさに、初めて気付いた。
特別なことではなく、ただただ日々、自分の目の前に居る人へ敬意を払い、愛に満ちて生きることが「生きることの意味」そのものだと気づいた瞬間だったのだと思う。
少しだけ大人になれた気がした。
今年K氏が亡くなったと伝えられた時、不思議にも悲しみはなく、感謝が溢れた。
2023年が終わろうとしている。
特段社会のお役に立つこともなく、
何かを成し遂げることもなかったが、目の前の人達や物事に昨年よりは丁寧に向き合えたのであればそれで良しとしよう。
関わったすべての人達に敬意と愛を。
今年は年越しそばの横は焼き魚。
散らかった我が家だが、パールのネックレスも忘れずに。合掌。