自粛明け。学校が再開してから、「子供が学校に行きたがらない」というご相談を何件か受けた。
もちろん、それぞれに事情はあり、内容も理由も違うのだが、
子供からお母様達がよく言われるのがこの言葉。
「なんで勉強しなくちゃいけないの?」
昔からよくある質問じゃないかと思う方も多いかもしれない。
でも自粛前には、大好きではないけどまあなんとか行っていた学校に、自粛後行けなくなるには、やはり理由がある。
親が、「なんで学校に行かないの?勉強はした方がいいと思うよ。」と言うから、
子供は、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」とそもそも論で対抗する。
よくよく聞いてみると、どの子も本当に何も勉強したくないわけでもなさそうだ。
今やりたいことじゃなかったり、
人と同じようにやらされるのが嫌だったり、
先生が苦手だったり、
本当に必要な勉強だと思えなかったり。
「この勉強って必要?」と聞いた子供に、「割り切れよ!」と答えた父親がいた。
この父親は、人生でたくさんのことを「割り切って」なんとか考えないようにしてきた方なんだろう。
「今は必要ないかもしれないけど、先で必要だと感じるから」と、答える父親もいたがこの方の答えはありだろうか?
まあどっちもどっちでしょう。
本当に勉強はしなくちゃいけないものなのか?一度先入観を捨て去って、考えてみないという意味では。
世の中が、良くも悪くも急速に変化している。昔のように、こうなったらこうなるだろうという予測は、本当に立たなくなってしまった。
今親が立てている「おそらく子供が幸せになるだろうという方向性」が当たる保証などどこにもない。
自粛後会社に行って、やはり満員電車で行く価値はある!と思った方ならともかく、大人だって色々と根本的な問いを持ったハズだ。
通り一遍の親の回答は、子供には見抜かれている。
だいたい、
クイズのような難問を速く解くとき、アタマは大して働いてない。
これはなぜ?なんでこうなるの?と心の中にWhy?が浮かんだとき、自分はどう考えるのか?どう行動するのか?と真剣に考えたときに、アタマは初めて回るのだ。
「割り切れず」「大人の言うことを鵜呑みにもせず」立ち止まる子供のアタマは学校でドリルをしているときよりフル回転だ。ゲームをしたリしてじっとしているからと言って、何も考えていないわけではない、と思う。
いわゆるゲームをしながら、自分の心を折ってまで続けてきたおかしな人生のゲームをやめられていることに安堵しているはずだ。もちろん子供がそんなことを論理的に説明したりはしないから、親にはダラダラ無為に過ごしているように見えるのだろうけど。そして理解されないなと思ったときに、子供は本当に空しくなって本気のダラダラに突入する、ということはあるかもしれない。
どうにもならないシステムに囲まれて、「ま、いいか」と不合理を飲み込んできた親が、ゲームの回答を出すことではなく、
気晴らしをしながら淡々と作業をすることでもなく、
「考える」ことを以前にも増して我が子に問われていると思う。
「幸せに向かう道」なんていう、親が考えたハズレるかもしれないものより、
世の中がどうなっても自分は大丈夫と思えるような、消えない火を子供の中にともして欲しい。
そしてもちろん
親も、「苦しい」って言ってよいのだ。